2017年9月29日
「公共の福祉」と「公益」ははたして同じなのか
(ほなみ122号より搭載)
憲法一三条は、「生命及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、…最大の尊重を必要とする。」と定め、この「公共の福祉」が国民の自由や権利を制限する根拠とされてきました。ところが、自民党の憲法改正草案では、この「公共の福祉」という言葉が消え、代わりに、「公益及び公の秩序」という言葉が用いられています。
自民党の憲法改正草案には数々の疑問点がありますが、私はこの言葉の違いにも重大な危険があると感じています。はたして、「公共の福祉」と「公益」は同じなのでしょうか。
例を挙げてみましょう。ある高校で、スマホの学校への持ち込みが禁止され、その目的として、次の三つが挙げられたとします。
① 学校でスマホをやっていたら、教育の環境が乱れ、他の生徒の学習権に悪影響を与えるので禁止すべし。
② 本人のためにも、学校では、スマホなんてしないで勉強に集中すべし。
③ 学校でスマホをするような人間は我が国にとって有益な人材ではないから禁止すべし。
このうち、①は、他の生徒の学習権の保障のために自由を制約しようとするものです。スマホを持ち込むと教育環境が乱れるかについては慎重な検討が必要ですが、目的自体には異論がないものでしょう。
次に、②は、本人の成長発達のために、自由を制約しようという考えです。このような考えは、時にはお節介となり注意が必要です。ただ、この考えも一応、個人の幸福という視点に立っているということができます。スマホを禁止することが本人のためになるかはやはり慎重な検討が必要ですが、このような観点からの自由の制限も、対象が子どものような場合には例外的に必要になることがあるでしょう。
それでは、③はどうでしょうか。この場合には、同じクラスの生徒のためとか、本人のためではなく、「我が国によって有益な人材となるため」つまり「お国のため」に自由を制約しようとするという点で、①②とは異質な考えです。
「公共の福祉」はこれまで、原則として①を指すものとして理解されてきました。つまり、人権は、その行使によって、他者の人権を侵害するようなことにならない限り、制限されることがないというものです。例外的に②のような理由も認められることがありますが、③のような理由による人権の制限は原則として許容されないものと考えられています。
ところが、憲法改正草案の「公益」という概念は、「お国のため」とか「美徳」や「道徳」さらには「多数の人の意見や利益」を含みかねない概念といえます。時の多数者にとって不都合な言論を「公益に反する」としたり、「道徳」で解決されるべき事柄を法律で禁止したり、「国家の安全」のために、国民の自由や権利が制限されることになりかねないと感じます。
自民党は憲法改正を本気で考え始めているようですが、この用語の変更は、人権の本質を変容おそれがあるものであると危惧しています。
弁護士 近 藤 明 彦