2013年1月8日
計測しながら耕す
事務所誌「ほなみ」第113号掲載
明けましておめでとうございます。 皆様、新年の門出をいかがお過ごしでしょうか。あの東日本大震災と福島第一原発事故から、まもなく2年になろうとしていますが、被災地の一日も早い復興を願わずにはいられません。 私も、昨年10月、新潟水俣病関係者の皆さんと一緒に、「新潟水俣病・福島原発事故 交流ツアー」に参加し、福島県二本松市の「ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会」の方々から被害の実情をお聞きしたり、川俣町、飯舘村、南相馬市小高地区の被災地を案内してもらい、改めて原発事故の被害の深刻さを痛感させられました。 私たちが車で二本松市から川俣町山木屋地区に入って最初に驚いたのは、放射能の影響でやむを得ず農耕を断念した田畑が、黄色い花をつけたセイタカアワダチソウで埋め尽くされた光景に遭遇したこと。群生したおびただしいほどの黄色い花が放射能の目に見えない怖さを訴えているようでした。第一原発に近い飯舘村長泥地区には「この先帰還困難区域につき通行止め」の表示があり、参加者の一人が空中放射線量を計測したところ、マイクロシーベルトで2前後だった数字が一挙に16を表示し、一時的に40を表示したという声も上がりました。 「ゆうきの里」の皆さんと交流したり、関係者が出した本を読むと、農家の方々は、2011年の春、避難すべきかどうかの深刻な選択を迫られたことが分かります。実際に避難した農家もいたが、先祖伝来の農地も、生まれ育った自然も避難できない。避難すれば貴重な農地と自然を失うことになる。多くの農家は不安をかかえながら、被爆の危険を冒して耕作に踏み切って、収穫。結果はどうだったのか。土壌は汚染されたが、セシュウムは奇跡的なほど農産物に移行しなかった。耕したことで表面沈着したセシュウムが土壌全体に希釈され、土壌自体の遮断効果で空間放射線量が低下したことも農家の方々を勇気づけました。 耕していなければ、農地も農家の心も荒れ、何ひとつ希望を見いだせなかったかもしれないが、耕したから、「一筋の希望の光」が見えた。しかしこの先はどうなのか。「測定しながら耕し、収獲してまた測定する」とのこと。農地と自然環境を守り、地域の再生に向けた農家の皆さんの力強い闘いが続きそうです。
弁護士 中 村 周 而
著者:中村 周而
さまざまな問題を依頼者の皆様と一緒に考え、解決をめざします。 最近は、社会の高齢化が進む中で、高齢者をめぐる貧困、医療、介護、家族との関係などさまざまな問題が深刻さを増しています。私もそうですが、団塊の世代を含めた高齢者が、もっと声を大にして問題の深刻さを訴える必要がありそうです。
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